短編小説っぽいもの
さむさむらい。 --
本編
『さむさむらい。』
KENはELGの集合地点の一つに向かっていた。 身につけている防具が二ヶ所ほど欠けているが、かわりに気分が重く、本番はこれからだというのに疲労がたまる。 集合場所に着いたら、誰かにリバイタルをかけてもらえるといいのだが。 かけてもらえなかったら、ドライアイスと一緒に持ち歩いているバナナミルクを飲もうか。 それにしても暑い。 ここアルビーズの森も、日本も。 日本に来てもう二度目の夏になるが、まだこの季節が好きになれない。 いや、ニューオリンズにいた頃から、彼は夏が嫌いだった。 三年前の夏、彼はこの季節が嫌いになった。 それが日本に来ても変わらないというだけ。 だが、不機嫌さを顔に出さず、KENは集合場所に向かう。 彼の本名はスマイリーという。 レッツ、スマイル。 いつも笑顔を。 どこからどう見ても笑顔で、それでいて微かに違和感を覚えさせる笑顔を浮かべ、彼は歩みを進める。 殺伐とした大地を。 わらげ、ここはELG・エルガデインとBSQ・ビスクが争う戦乱の世界。 KENはELGに所属している。 選んだ理由はBSQの階級装備が赤だったからというだけで、ELGに思い入れがあるわけではなかった。 赤い服は嫌いだ。 トビーを思い出す。 ニューオリンズにいた頃の、トビーとその取り巻きたちとの日々は思い出したくも無い。 母の仕事の都合で日本で来ることになったとき、彼は喜んだ。 言葉や生活習慣の違いなどは頭に浮かばなかった。 父の母国だったからではない。 ここから出られると、そう思っただけ。 その点では、母に感謝しよう。 そういった事情がなければ、彼の環境は変わらなかっただろう。 自分の環境を変えられるような強さが、彼は自分に無いことを知っている。 彼に出来ることは、スマイルだけ。 アイアム、スマイリー。 いつも笑顔を。 集合地点に近づくにつれ、会話がもれ聞こえてくる。 「・・・でさ、今日はけっこー、調子よくね?」 「うんうん、かなりいい!」 KENは漢字がまだほとんど読めない。 読み書きできる漢字はたまたま親しんだ数文字だけ。 一、二、三、読むだけなら福、神、雷、仏、暴、今日、明日・・・侍はちょっと難しい。 似たような漢字がいくつもある。 だが、意外になんとかなるものだ。 MMOでは会話に平仮名が多いのも助かっている。 平仮名と片仮名はほとんど読み書きできる。 “ね”と“ぬ”など、うっかりする文字もあるが。 読めない漢字を除いて、いつものように平仮名だけ読み拾った。 文章全体の意味が分からなくても、“よい”“いい”などがあればプラスであることが多い。 良かった。 彼らはトビーたちのような暴君ではないが、機嫌が良いに越したことは無い。 KENが彼らに声をかけるより、彼らがKENを見つけるほうが早かった。 「お、KEN」 「おつー」 「こん」 「おはー^^」 次々と声をかけられる。 困ったことに、みんなバラバラの挨拶で、各自に合わせて返事をすると大変である。 が大丈夫、KENはこういうときに便利な日本の挨拶を知っている。 これだ。 「ドーモ」 相手が返事をしたら、さらに二回繰り返す。 ドーモ、ドーモ。 これでOK。 相手が誰であっても、挨拶の時間帯も関係なく使える。 もし相手が不機嫌そうなら、間にアイスミマセンを入れる。 ドーモ、アイスミマセン。ドーモ、ドーモ。 多様性は大切だが、それはしばしば争いの種になる。 日本人は争いが嫌いだから、きっとそれでオールマイティーな言葉を生み出したのだろう。 KENはそんな風に思っている。 まだ日本を熟知したとはいえないが、日本人が昔、頭の上にピストルを乗せて生活していたというのが間違いであることも知っている。 あれはチョンマゲといい、オリエンタルアートのボンサイに通じる奥深い髪型なのだ。 日本人が熱湯に入る習慣があることも知っているし、思春期の少年が初恋の相手に告白する時はフンドシを着用して臨むということまで知っている。 かなりの日本通だと自覚している。 ついでにいえば、日常会話の発音もデーブ・スペクターより流暢だろう。 キル・ビルのルーシー・リューには負けるが。 手前に座っていたモガトが呼びかけてきた。 「KEN」 「ハイ」 「装備、どったの?」 ・・・漢字は困る。 文章が短いだけに、手がかりがないと何と言っているのか推測できない。 「?」 困っていると、モガトが指差していることに気づいた。 KENは自分の身体を見下ろして得心、あっさりと 「トラレマシタ」 鎧と足を覆う防具は先ほど奪われたばかりだった。 それを聞いたデュマピック、通称デュマが横から 「だれによ」 と、眉をひそめながら聞いてくる。 「・・・Tデス」 ここにくる途中、馴染みのあるBSQに襲われた。 人数からして本隊ではなく、斥候などでもなかったと思う。 運が悪かった、としか言えないが。 KENの返事を聞き、先ほどのモガトが納得したような声を出した。 「あぁ、なるほど。やつあたりだな」 「ヤツアタリ?」 「そ」 モガトは肩をすくめ、自分は納得してしまったからか、防具の手入れに戻ってしまう。 KENが納得いかずに立ち竦んでいると、 「さっきね、BSQをつぶしたのよ。べつどうたい、わかる?」 ジルと愛称で呼ばれるジルワン、彼女はKENが漢字が苦手なのを察して、いつも平仮名で話してくれる。 もっとも、彼女の場合は他の相手にも漢字をほとんど使わないから、偶然かもしれないが。 案外、こちらを小学生あたりに思っているのかもしれないと思うときもある。 「ワカリマス、ベツドータイ」 「そんなかにTがいた」 「んだ」 「弱かったw」 あぁ、なるほど。 KENも納得する。 Tというのは通称で、ここらではちょっとした有名人だ。 BSQに所属していて、強さは中の上といったところ。 ただ、勝つとやたらと暴言を吐く。 弱い相手には興奮して強くなるタイプなのだろう。 だが、負けたときよりはマシなのだ。 Tは負けると、それを周囲に当り散らして発散する。 中立を襲い、わざわざPreまで行ってビスク露店を水路に落したり、MPKしたりして回っているという。 どうやらKENと出会う前、Tらは目の前の彼らにボコボコにされたらしい。 で、憤懣やるかたないときに運悪く出会ってしまったのがKENだったわけだ。 逃げるKENを追ってくる意気込みが尋常ではないと思ったが、あれはそういうわけだったか。 相手は三人ほどだったが、こちらは一人である。 さらに、KENは残念ながらMoEでも強くはない。 そこそこ、といった程度だろうか。 わらげなのに盾無しの、神秘サムライをしている。 ニューオリンズにいた頃に夢中になった対戦ゲームで、銀色のサムライが活躍するのがあった。 その銀色のサムライは刀に炎・氷・雷を宿し、テレポートする能力を持っていた。 珍しくタイトルが英語として意味が分かるというだけでMoEを選んだKENだったが、神秘サムライを知ったとき、これは運命だと思ったものだ。 かくして、憧れだったシルバーサムライを真似て神秘サムライに至る。 サムライやブシのことも勉強した。 テクニックにハラキリなどの単語を見つけたときは、知識が身についている喜びを味わえた。 日本に着てから、オリエンタルドラマも観た。 スペルにミツクニの単語を見つけたときは、思わず「エチゴヤ!」と小さく叫んでしまった。 クノイチギャルは温泉入りまくりという常識も学んだ。 MoEのおかげで、彼はさらに日本という国に魅せられたともいえるだろう。 日本人は宝くじを買うとき、福神漬けというピクルスを食べることも先日知った。 福の神を食べることで、自分の中に福を呼び込む宗教儀式らしい。 KENは自分がかなり日本を熟知してきている手応えを持っていたが、まだまだ日本は奥が深くて神秘的だと思い直したものだ。 宗教といえば、この国は米国と違い多神教である。 しかも常軌を逸して神の数が多い。 ダーウィンの進化論を教えない一神教で育った彼には、この国の宗教概念は驚き以外の何者でもなかった。 なんでも八百万の神々がおり、さらに仏らまで徘徊しているというのだ。 八百万の神々を人口比率で言えば、ベースボールチーム一つにつき、神が一柱いる換算だ。 WBCで負けた理由はイチローではなかったのだ。 仏に至ってはおそろしいことに、この国ではイッサイシュジューシツウブッショーという教えがある。 これは存在する一切の全て、本来は仏だというもので、ありがたいことこの上なしだ。 神秘の国、ニッポン。 この国では犬も歩けば神仏に当たる。 KENは手頃な切り株に腰をおろし、バナナミルクを一気飲みする。 スタミナが回復していくのが分かる。 一服。 それから五分ほど経った頃だろうか、一人のELGがやってきた。 遅刻してきた男は開口一番、 「おぉ、お前ら、良いところに来たな!」 「いや、来たのアンタじゃないっすかw」 大柄な戦士、ガチ構成というやつだろうか、セオリーをきっちりとおさえた構成のわらげ民の一人である。 ロクトフェイト、皆からはロックと呼ばれている。 この集合場所のいつもの面々のリーダー格といったところ。 ロックはさっそく本題に入っていく。 「うし、今日も暴れるぞ! まずは作戦会議だ」 牛が暴れる? 闘牛か!? KENは周りを見渡したが、どこにもバイソンの姿は無い。 いや、そもそもここアルビーズの森にいるはずがないのだが・・・。 困惑するKENを置いてけぼりにし、情報を出し合っていく一同。 日によっては偏った構成の部隊になり苦労することもあるが、今日はなんとかバランスが取れた顔ぶれのようだ。 特に、対人メイジのモンティノ、通称モンティがログインしているのも良い。 ジルあたりからはモンちゃんの愛称で呼ばれているが、その強さは折り紙つき。 物理攻撃組に偏っているここの面々では、彼がいるだけで幅が出る。 「マッキーは?」 「あー、いま偵察中。いつもみたく物見にたってる」 マカニトはPreとわらげを半々で遊んでいる強化テイマーだ。 インビジをかけながら先行地点で物見に立っていることが多い。 相手もシーインビジブルなどで看破してくるが、タゲ切りや機動性などの観点からも彼がよく物見に出る。 そうこうしていると、さっそく敵部隊の発見情報が入ってきた。 「敵数8。防具なし2パニかも。あとは全員鎧。こんぼう1。みてわかるメイジは無し」 報告を聞き、ロックが考え込む仕草をする。 「・・・KEN、お前はどっちがいいと思う?」 仕掛けるか、やり過ごすか。 KENは内心、嘆息する。 ロックが自分に意見を聞くとき、それは判断がつかないときだ。 それはいい。 問題は・・・ 「オソウ」 本当は襲おうが見逃そうが、どっちでも良かったが。 KENが答えると、案の定、即座にロックが首を振る。 「やめとこう」 だと思った。 ロックは判断に迷うといつもKENに聞き、いつもそれと反対のほうに決断する。 KENは感情をおくびにも出さず、即座にキーを打ち込む。 「w」 笑いをあらわす、魔法のワード。 レッツ、スマイル。 いつも笑顔を。 KENはロックのこういうところが好きではないが、笑うのは慣れている。 日本に来る前からずっと。 痛みがないだけ楽なくらい。 彼はいつでも笑う。 誰にでも笑う。 どんなことをされても笑う。 アイアム、スマイリー。 自分が笑顔を向けないのは、そんな本名をつけた相手にだけだ。 たとえ強盗に襲われて刃物を突きつけられても、自分は笑顔を浮かべるだろう。 トビーたちに対してもいつも笑っていたように。 泣きながらでも笑う。 レッツ、スマイル。 いつも笑顔を。 痛みの中でも。 「待てよ、ロック」 声をかけたのはデュマだった。 「今回はモンティもいるんだし、仕掛けてもいいんじゃね?」 「だよな」 モガトも頷く。 「うんうん、いけるいける」 KENの到着前にあった一戦が好調だったことで興奮気味のジルも賛同する。 こうなれば、ロックの返事も決まっている。 俺もそう思っていたと言わんばかりの表情で、まるで自分の意見のようにKENに向かって 「やるぞ、いいな」 いいな、も何もない。 こっちはさっきそう言った。 でもキーに打ち込むのはいつものように魔法のワード。 「w」 レッツ、スマイル。 いつも笑顔を。 戦う前の高揚で、一同のテンションは上がっていく。 いくつかのポーションを投げ合って分け合ったり、効果時間の長いBuffをかけていったり。 「ねぇ、KEN」 「ハイ」 「これ、きる?」 ジルが金属鎧を差し出してくる。 「ちょw」 「ジル、お前・・・なんでそんなん持ってんのよw」 彼女自身はいつもレザー系の軽装だ。 「さっきむいたw」 得意げに笑って答えるジル。 「むくてw」 「おいはぎだ」 「こえー」 鎧と足防具を奪われているKENにとって彼女の申し出はあり難かったが、彼なりのこだわりもある。 「イエ、ヨビアリマス」 そう言って、予備というより非常用に持ち歩いている胴体防具を取り出す。 「ぶw」 「浴衣ぁ!?」 「サムライだ」 「ローニンやろw」 何人もの手を渡ってきたのだろう黒いプレートメイルのほうが遥かに優秀だが、武士のこだわりだ。 もちろん、彼女の好意に対して礼も忘れない。 「ドーモ、ドーモ。アイスミマセン、ドーモ」 ジルのほうも「どーもどーもw」と連呼して機嫌を害した風もない。 良かった。 と思ったら、かわりに気分を害している男がいた。 二人のやりとりを不愉快そうに見ていたロックが鼻を鳴らし、号令をかける。 「おら、さっさとやるぞ! KENもたもたすんな」 アイスミマセン、ドーモ。 そこに現れる、物見に立っていたマッキー。 「遭遇まであと一分」 何を言っているのかKENには読めなかったが、雰囲気で理解した。 もうすぐだ。 彼はカタナを構え、念を凝らして雷の神に祈りを捧げる。 「ライジンサマー」 LB、ライトニングブレイド。 その横で、ジルが微笑んで言った。 「いいね、それ」 KENはLBのことだと思い、頭を下げる。 LBは自分にしかかけられない。 「アイスミマセン、ドーモ」 だが、違ったらしい。 ジルが意外なほど流暢な発音で、 「Rising Summer. のぼりゆく、なつ?」 「・・・」 雷神様、のつもりだったのだが。 けれど、彼女の横顔を見ていると訂正する気が失せた。 悪くない。 まぁ、いい。 ・・・本当は雷神様だが。 「派手なだけで足ひっぱんなよ!」 さっきより機嫌が悪くなっているらしいロックがKENに怒鳴りつけ、「いくぞ!」と皆に号令を飛ばす。 一気に駆け出す一同。 KENも雷の刃を振りかざし、左手のチャージ武器にスペルを唱えながら疾駆する。 我はシルバーサムライ。 摩天楼を駆け抜ける武士なり。 たちまち乱戦になった。 KENはローニンのような着流し姿で、周りを観察しながら斬りつけていく。 そして、HPの削れた敵兵を確認し、チャージしていたスペルを開放、ミツクニオーダーを相手に叩き込んだ。 「ヒカエ、オロー!!」 相手が吹っ飛び、乱戦から抜けたその相手をKENは追う。 間にいるのは二人。 敵のうち二人いた裸装備のコンビだ。 斬りかかるか迷ったが、相手の左手に本があるのを確認し、無視してすり抜けることにする。 やはりこいつらはパニッシャーで、ヘルパニッシュをチャージしていると瞬時に判断。 すれ違う。 視界の先では獲物がミツクニの効果で土下座している。 情けは無用。 立ち上がる相手に向かい、雷の刃を振り下ろし・・・ 「Oh!?」 後ろに引っ張られた。 たちまち視界が紅に染まる。 頭上にいるのは巨大なコウモリ、鮮血を降り注ぐそれの名前が、さきほどの裸の片割れだったことに気づき。 引きずられる後方にいる裸の相棒が、フェイクの本を持った罠使いであることをKENは覚悟するように確信した。 直後、地面から吹き上がる紅蓮の火柱。 調子が良いと思っても、こんなものだ。 一瞬の読み違いで生死が別れる、これがわらげ。 炎に包まれながら、最期にKENは叫んだ。 「ナムアミダブツ!!」 KENはアルビーズの森を一人、帰路についていた。 装備はさらに減り、ついでに浴衣まで剥ぎ取られてしまった。 皆もそれぞれ装備を失ったりしているようだったが、正直あまり憶えていない。 「フンドシじゃないんだ?」 と、こちらの裸体をガン見するジルの視線が恥ずかしかったのだけ憶えている。 そもそも、彼は今日告白する気などなかったのだから、フンドシをつけているはずがないわけだが。 そう思い、これは激しく遠まわしな告白要求だろうかと思い、さすがにそれは考えすぎだと頭を振った。 もちろん、同じように装備を剥ぎ取られたジルのほうを見たりはしなかった。 武士は食わねど高楊枝。 据え膳眺める草食系。 いつもより身に染みる森の夜風を受けながら、KENはヌブールのほうへと歩いていく。 途中、布装備の中立を見かけた。 白蛇狩りだろうか。 いずれにしろ、彼らを襲う理由も欲求も無い。 名前がちょっと興味を惹かれただけ。 少しKENと似ていた。 疲れた身体と重い気分を抱えながら、KENは歩く。 それでも、その表情から笑顔は消えていない。 アイアム、スマイリー。 いつも笑顔を。 と、気配を感じ、KENは前方を凝視した。 誰かが来る。 条件反射で樹に隠れ、様子を窺った。 やってくる人数が5人ほどであることを確認、その中に見覚えのある顔を見つけた。 Tだ。 向こうも敗戦後らしい。 苛々と周囲の木の枝に当たりながら歩く様子で分かる。 KENはため息をつき、きびすを返した。 一日に二度もTに会うのは御免だ。 特に不機嫌なのが確実で、負けるのも確実な状況ではなおさら。 適当なところで迂回しようと、早足で来た道を戻る。 「ア・・・」 さっきの布装備の中立が見えた。 数分と立たずに、あの中立はTに出会うだろう。 いや、Tが中立を見つける。 そしてTは襲うだろう。 嬉々として。 そこまでは確信できたが、KENは首を振った。 自分には関係ないことだ。 また中立の名前が視界に入り、彼は眉をひそめる。 少しだけ崩れる笑顔。 中立の名前はKENJIだった。 ひどく馬鹿馬鹿しいことに、JIがJrに見えた。 くだらない錯覚に、彼は顔をしかめる。 もう少しだけ、崩れる笑顔。 彼はKENという名前の由来を思い出して苦い気分になる。 KENというのはニューオリンズに住んでいた頃、飼っていた犬だった。 シベリアンハスキーだったが、あまりにも老齢で元気の無い犬だった。 けれど彼には懐いていて、姿を確認すると甘えるように近寄ってきたことを憶えている。 三年前の夏、KENはいなくなった。 ある日突然、姿を消した。 朝になると、いなくなっていた。 彼はKENを探した。 自力で遠出するはずも無い老犬を探した。 小突かれながら、にやにやと笑いを浮かべるトビーたちにも聞いた。 こちらは弱気な笑顔を浮かべながら。 張り紙も出した。 結局、KENは見つからなかった。 彼のいる世界から姿を消した。 でも、彼は知っている。 あの夜、珍しくKENが狂ったように吠え、窓から見た向いの通りにトビーたちの車が停まっていたのが見えたことを。 翌朝にいなくなっていたKEN。 KENがどうなったか、本当は・・・彼は知っている。 それなのに、街中で老犬の行方を聞いて回った。 KENは見つからなかった。 彼は、夏が嫌いになった。 そんなことを思い出していると、アルビーズの大樹の根につまづきそうになった。 まるで、あの老犬がいつのまにか足元に身をこすりつけにきていた時のように。 中立を見る。 KENの息子、くだらないほど馬鹿馬鹿しい見間違いの名前。 彼は頭の中で投げ出そうとする。 おいやろうとする。 街中に張り紙をして回った、あの夏のように。 これから、自分は大きく迂回してヌブールに帰るだろう。 あの中立はTに出会い、襲われるだろう。 だが、KENはそれを見ない。 そう、関わることなんてない。 何もしなくても、ただ世界からあの中立は姿を消すというだけ。 30分もしてここに戻ってくれば、あの中立がいなくなっただけの同じ森が待っているだろう。 あの夏の朝と同じように。 KENと、同じように。 「・・・」 彼は足を止めた。 振り返る。 まだTたちの姿は見えない。 彼らにとって、相手は誰でもいい。 やつあたりできる相手なら、誰だって構わないのだ。 中立でも、誰でも。 そうたとえば・・・ 「・・・」 もし万が一、ありえないことだが、もしもKENがTたちに立ち向かったとして。 そうなれば確実にKENは死に、そしてTたちは満足して帰る。 だが、そのことをあの中立が知ることはないだろう。 何になる? 無駄だ。 何の見返りもない。 誰も知ることがない。 意味もない。 そうだ、そうに違いない。 馬鹿馬鹿しいよ。 KENは、スマイリーは笑顔を浮かべようとする。 レッツ、スマイル。 いつも笑顔を。 ・・・鏡がなくて良かった。 「・・・ナムサン」 彼は念を凝らし、雷の神に祈りを捧げる。 「ライジンサマー」 Rising summer. 昇りゆく、夏。 彼は駆け出す。 確実な死に向かって。 ブシドーとは、シヌことと、みつけタリ。 KENは最期に吠える。 あの夏の代わりに。 「BANZAI!!」
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